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松浦武四郎(まつうらたけしろう)1818~1888

江戸の終わりから明治にかけての探検家。北海道の名付け親として知られています。

6度に渡って蝦夷地(のちの北海道)を探査し、詳細な記録を数多く残すとともに、

アイヌの人々とも交流を深めました。

生まれは三重

 武四郎は文政元年(1818年)、伊勢国須川村(三重県三雲町)に生まれました。彼の家の前を通る道は「伊勢街道」といい、伊勢神宮へと続く道でした。多くの旅人を見て育った武四郎は、幼い頃から見知らぬ土地へ憧れを膨らませていたのです。

 ついに17歳で故郷を飛び出した武四郎は、10年間一度も帰郷することなく、旅に明け暮れ全国各地の名立たる山々を踏破していきました。

蝦夷地を目標に定め

 武四郎が蝦夷地と大きな関わりを持つきっかけとなったのは26歳のとき。ロシアの南下政策を知り、この目で確かめようと蝦夷地を目指しますが、松前藩の取り締まりが厳しく、実際に足を踏み入れることが出来たのは28歳のときでした。

 その後も2度にわたり蝦夷地に出向いた武四郎は、3回の調査の記録をそれぞれ「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題にまとめ発表。たちまち江戸で評判となり、当時の知識人や志士たちの注目を集めました。

実績を買われ・・・

 そうした実績が幕府の目に留まり、38歳のとき、お雇い役人として再び蝦夷地に渡ることになりました。その後、第4回目の調査を安政3年(1856年)、第5回目の調査を安政4年(1857年)、第6回目の調査を安政5年(1858年)におこなっています。

三重県松阪市小野江町に残る武四郎の生家

6度目の探索ルート。渡島半島部分を除くほぼ全ての海岸線と、十勝、道東、日高地域を調査しました

武四郎とアイヌ

 調査の中で武四郎はアイヌと触れ合い、言葉を覚えました。文化が異なるアイヌの人々への理解を訴え、絵入りでわかりやすくアイヌの人びとの暮らしを描いた「蝦夷漫画」や、アイヌの人びとの姿をありのままに記した「近世蝦夷人物誌」などを次々出版しました。アイヌの人々にとっても、武四郎は信頼できる和人だったようです。

北海道の命名

 明治2年(1869年)、戊辰戦争が終わり、開拓使が設置されると、武四郎はこれまでの実績をもとに「開拓判官」に任命されます。「蝦夷地」に替わる新しい名称を考えることとなり、「北加伊道」など6つの案を政府に提出し、この案をもとに「北海道」と名付けられた、とされます。その他、北海道の地名の多くが武四郎によって名づけられました。

「北加伊道」に込められた想い

「加伊(カイ)」とはアイヌ語で「この国に生まれた者」という意味。アイヌへの敬愛を忘れなかった武四郎は、「北のこの地に生まれし者(アイヌ)の土地」という意味を込めて、「北加伊道」という名を提出しました。

開拓判官に任命された辞令書。松浦武四郎記念館所蔵

趣味に生きる

 その後政府を辞めた武四郎は、骨董品の収集を趣味

としながら、再び全国各地をめぐり歩きました。68歳

から70歳にかけて、三重と奈良にまたがる大台ケ原

に3度も登り、地元の人びとが利用しやすいように

登山路の整備、山小屋の建設などを行いました。

 明治21年(1888年)、東京の神田五軒町に

ある自宅で脳溢血により亡くなりました。

71歳でした。

武四郎が晩年を過ごした「一畳敷」。移転を繰り返し、現在は東京の国際基督教大学敷地内に現存しています

武四郎のコレクションのひとつ「大首飾り(勾玉首飾)」。
武四郎唯一の肖像写真でも、その首に掛けている

幕末から明治維新という、日本の歴史の大きな転換期。武四郎は大きな探究心を携えて、旅行家、冒険家、作家、学者と類まれなる多彩な才能を発揮しました。彼の業績は今もなを生き続け、北海道の名付け親として、北海道各地で記念碑が建てられています。

松浦武四郎関係の資料の収集保管、調査研究、展示公開、教育普及などの博物館活動を行っている施設です。松浦家で代々大切に保存され、寄贈を受けた武四郎ゆかりの資料を展示する博物館として、平成6年(1994年)に開館しました。

三重県松阪市小野江町383  TEL:0598-56-6847

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