武四郎の蝦夷地探査

ロシアの南下政策を知り、28歳から40歳まで、6度に渡り蝦夷地を調査した武四郎。

探索の記録を事細かに描き記したため、北海道にはゆかりの地に数多くの石碑が建てられています。

6度目の探索ルート

調査ルートはその都度で異なります。例えば、安政5年(1858)、6度目の探索では、渡島半島部分を除くほぼ全ての海岸線と、十勝、道東、日高地域を調査しています。この時の記録はのちに『久摺日誌』などの名前で出版されました。

1度目~5度目の探索ルート

①阿寒湖
安政5年3月に阿寒湖畔を訪れた武四郎は、阿寒の豊かな自然を称える漢詩を久摺日誌に書き記しました。その漢詩は「松浦武四郎漢詩碑」として「ボッケ 森のこみち」に佇んでいます。
②松浦武四郎漢詩碑
武四郎が久摺日誌に書き記した漢詩。

「夕方になり、湖面も波立たない静かな中、周辺の崖に沿って小舟を動かしていると、雪をかぶった美しい雄阿寒岳の雄大な姿が、影となって湖面におとしているではないか。この山こそ、わたしが昨日登った山なのだ」

といったことが書かれています。
③松浦武四郎歌碑
安政5年4月10日、屈斜路湖を訪れた和人は武四郎が初めてでした。ここでも武四郎は風景の素晴らしさについて触れています。翌日は船を雇て湖中を見物し、東岸を廻りました。
④摩周湖
安政5年4月6日に清里町清泉から清里峠を越え、摩周湖の外輪山をほぼ一周。ホロと呼ばれた大洞窟に一泊しました。現在その洞窟は地震で埋まってしまっています。
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第1回目
弘化2年(1845)武四郎28歳

函館から太平洋側の海岸を回り、知床岬まで向かうルート
第2回目
弘化3年(1846)武四郎29歳

日本海側の海岸線を回り、サハリン(樺太)を調査後、オホーツク海側を歩いて知床岬へ向かったルート
第3回目
嘉永2年(1849)武四郎32歳

函館から船で国後島、択捉島へと渡るルート
第4回目
安政3年(1856)武四郎39歳

函館から日本海側を北上し、サハリン南部を調査後、太平洋側の海岸線を回るルート
第5回目
安政4年(1857)武四郎40歳

石狩川、天塩川の流域を調査
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蝦夷地探索の集大成

 そうして海岸線から内陸までをくまなく調査した武四郎は、その集大成として、「東西蝦夷山川地理取調図」という地図を安政6年(1859)に発行しました。

 26枚の切り図と余白部分の24枚の計50枚を張り合わせて1組とした、縦2・4メートル横3・6メートルの大地図です。川が血管のように張り巡らされ、多くのアイヌ地名がびっしりと記されています。山は起伏を線で表す「ケバ法」で描かれているのが特徴です。

 海岸線だけは、伊能忠敬(1745-1818)や間宮林蔵(1780-1844)によって正確なものが作られていましたが、内陸部の状況を詳しく図示したのは武四郎が初めてでした。